2024.4.28

「パウロの祈り」

(ピリピ 1:9〜11、マタイ 6:5〜18)

 

 今日は、ピリピ人への手紙1章9節から11節の短い部分から「パウロの祈り」を学んでみましょう。というか、それはまさに祈りの真髄を語っています。

 祈りは聖霊の洞察力なくしてはできないものです。それはイエス様の祈りに通じるものです。イエス様は自然体で神との交わりの深いところに常に身を置いていました。パウロはそれを言葉に表して分析し、私たちに伝えているのです。

 「私はこう祈る。あなた方の愛が、深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、(9節)

 

 それによって、あなた方が、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真でせめられるところのないものとなり、(10節)

 

 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光と誉れをあらわすに至るように。」(11節)

 

 いかに鋭い洞察力を持っていても「愛」に反しては無意味な祈りです。そして、正しい祈りは聖霊による導きです。神との交わりに妨げとなるものは皆排除していかなければなりません。聖霊による識別能力です。

 

 祈りとは、祈りの言葉数ではなく、祈る人の人格、信仰、態度が問われています。それは密かな隠れたところで捧げるものであり、祈った事は既に聞かれたと信じる信仰持って祈ることです。この本質的な祈りについては、イエス様が語ってくださいました。

 「あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになる。あなたの父に祈りなさい。すると隠れたことを見ておられるあなたの父は報いてくださるであろう。…

あなた方の父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存知なのである。」(マタイ6:5-8)

 戸を閉じて、密かに祈るかどうかについては、まさに「鋭い感覚」が求められます。教会の公の場における祈りも、個人的な祈りの生活においても、それは形式や言葉数ではなく、その人の信仰と、日々の生活が問われているのです。

 18世紀の英国の宗教改革者、ジョンウェスレーは言いました。

「罪のほか、何者も恐れず、神の他何者も慕い求めない100人の人がいさえすれば、それは教職者であろうと信徒であろうと構わない。彼らは地獄の扉を打ち砕き、神の国を打ち立てるでしょう」

それは現代においても同じです。日々の生活、日々の言葉が日々の祈りにつながっていくのです。そこに神の奇跡が見られるでしょう。

 

 そこでイエス様の教えてくださった祈りに帰ります。

「天にいます我らの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天に行われる通り、地にも行われますように」(マタイ6:9-10)

御名は神の唯一の御名、

御国は神の支配するところ、すなわち私の心ですね。忙しさが心を支配しては、もはや祈ることができません。雑事から解放されなければなりませんね。

御心が地上にもなりますように。それはあなたの願望の全ての動機です。

この御言葉が、あなたの祈りとなり、心の状態となりますように!

そこに奇跡が始まります。

 

聖霊があなたの心を導き、あなたに祈る時を与え、祈りの心を満たしてくださるようにお祈りいたします。

小田 彰